賢者は昨日済ませる

何かの偉人が残した言葉で「明日やると言っている愚か者,今日ですら遅いのだ,賢者は昨日済ませている」みたいなものがあった気がします。この言葉を初めて知ったときにとても良い言葉だと思い頭の片隅に置いておいたのですが,再度この言葉を咀嚼反芻してみると前回とはまた異なった解釈になり,言葉の深さに驚きました。

読んで字のごとく意味を取ると,今になって英語の勉強をしている私は愚か者,大学受験期に英語を終わらせている人は賢者,ということになります。ですが,私は一つ疑問に思うことがありました。それは「今になって英語を学習することが果たして賢者のすることなのか」ということです。既に英語を終えている人は,その点において賢者です。しかしその賢者を追いかけるように勉強をし始めることは決して賢者ではなく,むしろ愚か者以上の愚か者なのではないか,と考えられてしまうのです。

確かに受験期に英語を学習しなかったことは愚かでした,しかし,今になって英語を学習することが賢者になるために必要という訳ではない,というのが私の考えです。もっと今に沿った,英語に加えて次に必要になる何かを考えて動かなくてはいけない,そう思うのです。考えるときは考えるポイントを見失ってはいけない,とはまさにこのことなのかもしれません。今すべきことを熟した上で過去の遅れを取り戻す,もしくは遅れた分を全て諦めて今まさにすべきことに注力することが大切,というのがこの言葉の意味なのかもしれません。この解釈であれば,私がするべきことは英語の勉強が中心ではなく,次にすべきことに先手を打つことである,と考えられます。大学院へ進むか,就職をするか,一度決定することこそが賢者としてすべきことなのではないでしょうか。

ここしばらくはこういった悩みに苛まれ続けています。将来なんてものは誰にも分かりません。オリンピックすら延期させてしまうほどの想定外が起こることは去年証明されました。いかに考えようとも正確な答えを出すことができない問題であることは間違いないのですが,後になってしっかりと考えなかったことを後悔するのは嫌だというものまた事実です。感情とは実に厄介極まりない。ああなりたい,こうなりたいと願い,人生楽しく生きるという信念を貫くことも大事ですが,それが不安を払拭しきるだけの力を持っているわけではありません。もう少し,人生を大胆に使うべきなのかもしれません。二十代のうちは能力次第でいくらでも転換が効く、という話はよくされています。実際はどうなのか私には分かりませんが,しかれたレールの上をとりあえず歩いてみて,肌に合わないならそれからでも遅くはないのかもしれません。

今目の前にあることを一つずつ熟していくことが次に繋がる道標となる,ということを唱える教授がいますがきっとそうなのでしょう。悩むのもそろそろ終えて大人にならないといけないのかもしれません。