他言語学習の捉え方とその恩恵

他言語の習得は,確かにある程度の時間がかかることではありますが,決して難しいことではありません。日本人の多くがどうして他言語の習得を苦手としているでしょうか。

 

皆さんは外国語学習と聞いてどのようなことをイメージするでしょうか。一般的には「単語や文法の暗記」「反復作業」「楽しくない」といったことをイメージする人が多いことでしょう。本来,外国語学習は楽しいもののはずが,どうしてこうも否定的な意見を持つ人が多いのでしょうか。その原因について話をしていこうと思います。

本来,言語学習とは何を目的として行うものなのでしょうか。分かる人には分かることかもしれませんが,「自分の意見を他人に伝える手段の習得」を目的としています。当然のことのように思うかもしれませんが,これを蔑ろにしているのが義務教育なのです。義務教育では「試験で出題される問題を解く能力の習得」を目的としていて,他言語による意思疎通の手段を学びません。受験に必要となる「扱い方」ばかりを教えて,受験には必要ない「使い方」を教える場を設けることをしないのです。使い方を知らないから使うことができないし,使うことができないから英語が嫌になってしまう。英語を学習し始めたときからこのような負の循環が完成しているのです。

知識は沢山あって理解はできるのに意思疎通ができない,なんて人が大量発生する原因がこれです。受験でいかに外国語を学習しようと,使い方が分からないものに一切の価値はありません。国家も英語を使うことができる人を増やそうと小学生から英語学習を義務化したり,大学入学共通テストでリスニングの割合を大きくしたりと色々な政策を実行していますが,英語を使う場を設けていない時点で全くもって意味がないと私は考えています。

では,どうすることが大切なのか。最優先となるのは「意思疎通をするために学習する」という意識を持つことです。本にも外国人は多くいますが,誰も彼もが流暢に日本語を話せるわけではありません。それでも彼らは問題なく意思疎通ができています。つまりはそういうことです。沢山の単語を暗記することよりも,沢山の文法を使えることよりも,自分の意見を他人に伝えることができる方が何倍も意味があるのです。

受験英語が無価値と言っているわけではありません。もしもあなたが「意思疎通をするための英語」を学び始めたとき,受験英語という貯金は大きな力を発揮します。もともと持っているものが多い分,それだけ馴染みやすく扱いやすいものとなるのです。

英語が使えるようになり,英語で意思疎通ができるようになることで得られる恩恵は計り知れません。世界中の情報に触れることができ,世界一〇億人以上の人とコミュニケーションをとることができ,英語に翻訳された世界中の本を読むことができ,世界中が旅できる。少し考えただけでもその影響力は計り知れません。学習する目的をただの受験勉強に収めることなく,もっと価値があるものだと理解したうえで学習することでその効率はぐんと上がるのではないでしょうか。

これは英語に限った話ではありません。韓国が好きな人は韓国語を,ヨーロッパに行きたい人はドイツ語やフランス語を,将来宇宙に行きたい人はISS公用語であるロシア語を,意思疎通のために学ぶことが大切です。

理想的な生活の引き金

理想的な私生活の送り方というものをしばらくの間考えていたのですが,最終的には主に「欲求」「予定」「習慣」に行きつきました。

長い間廃人のような生活を送ってきた私ですが,現在は毎日同じ時間に起きて同じ時間に寝るようになり,以前とは比較にならないほど充実した生活を送ることができています。規則正しい生活を送ろうと意識し始めた頃は「朝 早く起きる方法」「睡眠 質 良くする」みたいな頭の悪い検索を沢山していたのですが,思い返すとあまり必要ないことに時間を費やしていたように感じます。どうすることで最も理想的な生活を送ることができるのか,について私の意見を述べようと思います。

 

一つは「欲求」です。ここで言う欲求は主に「自己実現欲求」「成長欲求」等を指していて,例えば「好きな人に好かれたい」「お金持ちになりたい」「ゲームが上手くなりたい」がこれに当たります。この類は意識に強く作用し,生活を大きく変える原因になると思っています。私の生活が変化した理由はこれに該当し,「人生を楽しみたい」という欲求によって意識から生活から表情から,何もかもが大きく変化しました。どういう意識が生活を変化させ得るかは人によって異なり,加えてそのときの置かれている環境や精神状態に大きく左右されるので,万人に受け入れられる解というものはないと思います。自分に合ったものを見つけてみましょう。

 

一つは「予定」です。予定が詰まっているときはそれに合わせて生活できるけど予定が無くなると途端に生活がぐちゃぐちゃになる,という人はこれが原因かもしれません。こういった人は意識的に予定を立てるようにすることで生活が大きく改善することがあります。例えば「明日晴れていたら買い物に行こう」のようなざっくりとした予定を立て,それに合わせて生活をする,といった感じです。「明日は絶対こうする」みたいな強制力の強いものだとむしろ苦しくなることがあるので,あくまで「できたらこうしよう」くらいの精神でいる方が良いと思います。予定を立てることに馴染むと「この後〇〇しよう」という予定を立てることができるようになります。無為に時間を浪費することや「この後何しようかな」と考える時間がなくなり,充実した一日を過ごすことができるようになります。

 

一つは「習慣」です。良い習慣を持つことは予定を持つことに繋がります。例えば「〇時に起きるまたは寝る」「軽い筋トレをする」「本を読む」といった習慣は日々の中で予定となり,結果として生活に秩序を与えることができるのです。多くの人は習慣化が目的となっている傾向にあります。しかしここでの習慣とは,規則正しい生活をするという目的を達成するための手段に過ぎません。こういった意識を持つことができると,習慣化はとても身近なものになると思います。

 

衝撃的な出来事によって生活が変化することが稀にありますが,それ以外だと張り切り過ぎは三日坊主になることが多いので,少しずつ取り入れていくことがいいでしょう。

投稿をするのは朝か夕方か,悩ましい。今日はここで。では。

習慣の話

規則正しい生活を意識するようになって暫く経ちました。当初はなんだかんだ就寝や起床の時間が遅くなることが多かったのですが,最近はそういったことも減り,比較的充実した一日を送ることができています。久しぶりに日記を書くので,最近の事について話していこうと思います。

まずは生活習慣について

朝は七時半頃に目が覚めます。それから三〇分程度でベッドメイク,換気,洗顔,イメトレをして,寝覚めがいい日はこれに加えて瞑想をしています。瞑想はイメトレとセットで実践したいと思っているのですが,寝覚めが良くない日にやると寝てしまうことがあるのでそこの兼ね合いを調整中です。

イメトレですが,これは一日の実行力や達成感に繋がるので取り入れて正解でした。その日やることはこの時間に決まることが多いです。例えば「英語を勉強しているイメージ」をすると英語を学習する時間を設けようとするし,「お金持ちになっているイメージ」をするとどうしたらお金持ちになれるかを考えるようになるし,「読書をしているイメージ」をすると読書をするようになります。イメトレの力は凄まじい。

このセットを終えてから筋トレ,軽い食事,コーヒーと続きます。イメトレの前に筋トレをすべきなのか,筋トレと一緒にストレッチをしたほうがいいのか,どれくらいの量の食事をとるといいのか,等々を現在模索中です。私に合うようにもう少し変えていこうと考えています。

ここでの筋トレの目的は筋肉を動かすことにあるので辛くなるまではやりません。やっていることは主にスクワット,カーフレイズ,ヒップリフト,クランチ,フロントブリッジで,一通りやって三分から五分程度の軽いものです。はじめはスクワットとカーフレイズだけだったのですが,続けているうちに一つまた一つと勝手に増えていきました。軽いものでも十分活気に繋がるので,どんなにやる気がない日も最低限スクワットを数回はするようにしています。

ここまでで起床してから一時間程度が経過しています。以前の私はこの時間をダラダラと過ごしていたので,この時点ですでに充実しています。ここからはイメトレの時に決めた予定を元に一日を始めていきます。

 

夜の習慣

夕方になると集中力が切れて注意力が散漫になるので,それから二三時までが自由時間になります。この時間は全くと言っていいほど脳が働かないので頭を使わずに楽しめることに専念し,好きな配信者のライブやアーカイブを見たり,映画やアニメを見たり,友達と通話したりゲームしたり,本を読んだりして満喫します。

夜の習慣はお風呂から始まります。二三時過ぎにお風呂に入り,それから軽くストレッチやマッサージをしながら寝る準備をして,〇時にはベッドに入って瞑想の準備に入ります。短いときは数分,長いときは三〇分ほどの瞑想をし,眠くなるのをまってそのまま寝ます。

この時間に瞑想をする上でよかったと思ったこといくつかあります。一つは,ネガティブな妄想に捕らわれなくなるということです。寝る前にネガティブな感情に襲われることが多かったのですが,瞑想をするようになってからネガティブな感情から意識的に離れることができるようになりました。これには本当に助かっています。一つは,「明日の朝やればいい」という意識をするようになるということです。寝る前に「あれやらないと」となることも珍しくないのですが,そういうものを全て紙に書き出して翌日やるようになりました。一つは,夜更かしをしなくなったということです。眠くなるまで瞑想をするようになったので動画やSNSを見続けてしまうことがなくなりました。ベッドの中で過ごす無駄な時間は翌朝にとても響くので,こういった無駄を削ることができたのは大きな進歩です。

こうして一日が終わり,翌日の朝に続きます。

 

最近になって,日記や小説などを書かない日はろくな一日にならない,ということが分かってきました。二日か三日に渡って文字を書かない日があったのですが,どちらの日も余った時間を無為に浪費し,剰え他の習慣のやる気すら削ぐ始末でした。生活にメリハリはなくなるし,習慣は狂うし,充実した一日に思えないし,散々でした。

せっかく習慣化していた日記や小説を書かなくなってしまったことにはいくつか理由があります。一つはこれまで日記を書いていた時間になると眠くなってしまうから,一つは大学が始まって生活を見直す必要があったから,一つは勉強に時間を使うようになったから,などです。ここで「日記や小説を書く時間を勉強にあてる」という選択をしたのが間違いでした。日記や小説を書く時間を確保したうえでいかに勉強するか,ということを意識するようになって習慣を立て直すことができたので本当に良かったです。勉強する時間を確保することができたあたり,依然として無駄な時間はあるようなので,もう少し自分を忙しくしていきたいところです。

 

書きたいことは積もっていますが,この辺で。では。

賢者は昨日済ませる

何かの偉人が残した言葉で「明日やると言っている愚か者,今日ですら遅いのだ,賢者は昨日済ませている」みたいなものがあった気がします。この言葉を初めて知ったときにとても良い言葉だと思い頭の片隅に置いておいたのですが,再度この言葉を咀嚼反芻してみると前回とはまた異なった解釈になり,言葉の深さに驚きました。

読んで字のごとく意味を取ると,今になって英語の勉強をしている私は愚か者,大学受験期に英語を終わらせている人は賢者,ということになります。ですが,私は一つ疑問に思うことがありました。それは「今になって英語を学習することが果たして賢者のすることなのか」ということです。既に英語を終えている人は,その点において賢者です。しかしその賢者を追いかけるように勉強をし始めることは決して賢者ではなく,むしろ愚か者以上の愚か者なのではないか,と考えられてしまうのです。

確かに受験期に英語を学習しなかったことは愚かでした,しかし,今になって英語を学習することが賢者になるために必要という訳ではない,というのが私の考えです。もっと今に沿った,英語に加えて次に必要になる何かを考えて動かなくてはいけない,そう思うのです。考えるときは考えるポイントを見失ってはいけない,とはまさにこのことなのかもしれません。今すべきことを熟した上で過去の遅れを取り戻す,もしくは遅れた分を全て諦めて今まさにすべきことに注力することが大切,というのがこの言葉の意味なのかもしれません。この解釈であれば,私がするべきことは英語の勉強が中心ではなく,次にすべきことに先手を打つことである,と考えられます。大学院へ進むか,就職をするか,一度決定することこそが賢者としてすべきことなのではないでしょうか。

ここしばらくはこういった悩みに苛まれ続けています。将来なんてものは誰にも分かりません。オリンピックすら延期させてしまうほどの想定外が起こることは去年証明されました。いかに考えようとも正確な答えを出すことができない問題であることは間違いないのですが,後になってしっかりと考えなかったことを後悔するのは嫌だというものまた事実です。感情とは実に厄介極まりない。ああなりたい,こうなりたいと願い,人生楽しく生きるという信念を貫くことも大事ですが,それが不安を払拭しきるだけの力を持っているわけではありません。もう少し,人生を大胆に使うべきなのかもしれません。二十代のうちは能力次第でいくらでも転換が効く、という話はよくされています。実際はどうなのか私には分かりませんが,しかれたレールの上をとりあえず歩いてみて,肌に合わないならそれからでも遅くはないのかもしれません。

今目の前にあることを一つずつ熟していくことが次に繋がる道標となる,ということを唱える教授がいますがきっとそうなのでしょう。悩むのもそろそろ終えて大人にならないといけないのかもしれません。

比較しない生き方

比較をしない生き方がいかに素晴らしいものか,実感することが増えてきました。

 

「人生を楽しむ」ために熱心に取り組むようになってから様々な変化がありましたが,自分と他人の間にある明確な境目を実感することが増えました。当たり前のことを言っているようですが,あまり理解できていないことだと思います。

人の不幸を一緒に悲しむことができる人や,人の幸を一緒に祝うことができる人は多いでしょう。同様に,人の不幸を笑う人や,人の幸に嫉妬する人もまた多いでしょう。よく言われる人間らしさというものです。私が言う境目とは,こういった感情面での明確な境界線のことを指します。私は私の人生を歩んでいるという意識から,他者と比較することがほとんどなくなりました。他人対して淡白になった,とでも言いましょうか,他人に寄り添うことはしますが共感したりはせず,その人が何を考えているのか理解するよう努めることで,結果として共感していた頃よりも気持ちが分かるようになった,といった感じです。

先ほども言いましたが他人に対して淡白になったことで,人間関係の大半が本当にどうでもよくなりました。自分が楽しむことで精一杯なので他人に構わなくなるし,嫌われようが構わないし,どう思われようが気にならなくなります。これは本当に気持ちが楽になりました。人生で友達は数人いればいいとよく両親が言っていましたがまさにその通りで,友人と言える友人は数人に絞って残りは行き当たりばったりでどうにかなりそうです。

去年まで私の事を頻繁に遊びに誘ってくれる友人がいたのですが,コロナを理由にずっと断り続けたせいか,今年に入ってから誘われることが無くなりました。しばらくして他の友人から「おまえのこと,付き合いが悪いって言っていた」みたいな話を聞いて,酷く落ち込んだことがありました。今思い返すとどうして落ち込んでいたのか,不思議で仕方ありません。コロナを理由に断ったときに,コロナ後に会おうと返事をくれる人だけいれば良く,それ以外は有象無象でしょう。物事はシンプルですが感情によって複雑になる,ということがよくわかる出来事でした。

人生観と人生

昨日の出来事について,今日は一日考えることになりました。

今の私の行動原理は「人生を楽しむために何をすべきか」ということであり,これを考えることができるようになって私の人生は本当に大きく変化しました。特に顕著であったのは,私が置かれている現状に対する漠然とした不安と,将来の不透明さに対する不安,この二つです。

もともと私は何事にも慎重で,どのような出来事でも真剣に捉えてしまうような冗談の通じない人間でした。その時の私は「失敗することは悪で,失敗しないように生きることが美」という思考に捕らわれていて,真面目が服を着て歩いているような性格だったと思います。私の許容量を少しでも超えてしまう事が起きると,その影響は止まることなく全ての事に支障をきたし,何もかもを狂わせてきました。世の中どうしてこんなに難しいのだろう,と考えたことも五回十回ではありません。

結局,難しかったのは世の中ではなく私の方でした。物事を難しく考えすぎていたのです。これに気付くことができたのは「人生を楽しむ」という考え方のおかげでしょう。人生を楽しむことを考えていると「人生が楽しめないのはなぜか」という疑問に行き着きます。ここで私は,失敗を悪と考えているせいで失敗ができず,だから楽しむことができない,ということに気が付くことができました。

人間はおおよそ,できることはポジティブに捉え,できないことはネガティブに捉える傾向にあり,私はポジティブに捉えることをしてこなかったのです。ここが私の人生における大きな間違いであり,考えるべきは「失敗してもそれが成長に繋がって自分を豊かにするならそれでいい」であったのかもしれません。これを納得できたときに,肩の荷が下りて表情がものすごく柔らかくなったことを覚えています。

無意識であるゆえに気が付かないことですが,人生観は全てに作用します。小さな変化であっても,それが無意識に作用する変化であれば影響はとても大きいものになるのです。

昨日の出来事では「落ち込んでいる原因を明らかにして,改善することで自分を豊かにする」ということが起こっていました。今の私の人生観が「人生を楽しむ」ということにあり,行動原理が「人生を楽しむために何をするべきか」という意識にある,ということが確認できたといえるでしょう。勉強ができるようになったとか,運動が出来るようになったとか,そういう嬉しさとは質が違います。これほどの達成感を感じたことは久しくありませんでした。ごみみたいな人生だと思っていましたが,存外捨てたものではないですね。

 

昨日友人と通話をしているときに,みんなで小説を書いているから一緒にどうか,と誘われました。高校時代の友人が数人集まってやっているようで,あまりにも面白そうだったので参加することにしました。小説と日記で交互にやっていくことになるので,短い文章で終わることが多くなるかもしれませんが,毎日続けることはしっかりと意識していきたいところです。

最近はとても暖かくなってきましたね。明日から新学期です。頑張っていきましょう。では。

久しぶりに落ち込んだ話

大抵の場合は万事を些細として流すことができるのですが,今日は久しぶりにひどく落ち込みました。人生を楽しむ,ということを軸として生活していますが,ふとした瞬間に全てを忘れて苦しくなることがたまにあります。

ただ,今回はいつもとは異なり,その原因について深く考えることとなりました。漠然とネガティブになるのではなく,人生を楽しみたいのに何でこんなに落ち込んでいるのか,ネガティブの原因は何なのか,みたいなことです。とても不思議な時間だったのですが,今思い返すとこれってもしかして物事を俯瞰しているとか,自分を客観視できているとか,そういうことなのではないかと思っています。無自覚にこのようなことができていたので,私としては成長を実感できた良い機会です。最終的には,今回落ち込んでいる原因はこういうことだろう,みたいな結論をだすことができ,それからは落ち込んでいた事すら忘れて勉強に集中できたので,不安を取り除き,引きずらないためにはこういったことが大切だということも分かりました。

何がどうして今回こういった変化があったのか分からないのですが,人生観の変化とそれに付随する物事の考え方の変化がとても大きかったと思います。先ほども書いたように人生を楽しむために現状をどうにかすることに加えて,自分がイメージする理想へと向かう精神力と胆力があったからこそ,こういったことができるのかもしれません。価値観を変化させたことが早くも作用したことで,さらなる成長をイメージする糧となりました。良かったです。

 

友人と通話を始めたので,途中から何を書いているのかが分からなくなりました。許してください。では。